水時計の来た道

新井晋司  (2005年10月同志社大学講義録より)

(注)●印は表示不能な漢字なので、発音のみ表記してあります。


★☆★★はじめに★★☆★

古代において、いったいどのような時計を使って時刻を知り、時間を測定していたでしょうか。そう尋ねられて思い浮かべるのは、日時計、水時計、砂時計などではないでしょうか。火時計(ろうそく、ランプ、火縄、線香、お香)や、その他の時計を思い浮かべる人もいるかも知れません。

西方では、古代のエジプトやメソポタミアの時代に日時計や水時計がつくられています。その後、おそらく紀元後14世紀頃には、西洋で機械時計がある程度普及したと思われます。それにたいして、東方の中国、朝鮮、日本では水時計が主流でした。

機械時計が西洋から伝わるまでは、中国では少なくとも千数百年にわたって、水時計が公的に重視されています。その水時計は、朝鮮や日本にも伝わり、両国でも長い間使用されました。日時計は夜間や曇天には使用できないので、その点では水時計の方が有用といえます。本稿では、中国、朝鮮、日本の水時計について紹介します。

 

★☆★★中国の漏刻★★☆★

中国では、一般に、水時計のことを漏刻(ろうこく)と呼びます。言い伝えでは、中国の伝説上の皇帝である黄帝(こうてい)が漏刻を発明したことになっていますが、これは伝説にすぎません。文献上は、中国古代の官僚制を記した『周禮』(しゅらい)という書物のなかに、軍中で水時計を管理する挈壺氏(けつこし)という役人が出てきます。この周禮が書かれたのは、おそらく戦国時代(前403〜前222)のことでしょう。

さいわいにも中国には、出土品を含め、漏刻が10件ほど存在していることが確認されています。古いところでは、前漢(前206〜後7)の漏刻が3つ出土しています。それらは前2〜前1世紀頃に使用されたり、造られたものです。形はみな図1のごとく銅製の円筒形の壷で、壷の下方には水が流出する出水管が溶接されています。

蓋(ふた)と取っ手には長方形の穴が開いており、この穴に時刻目盛りを刻んだ細長い棒である「箭」(せん)を通し、箭を壷に浮かべて時間を計ります。壷の中の水が流出するにしたがって、箭はだんだん下がってゆきます。おそらく取っ手のところで、下がってゆく箭の目盛りを読んだのでしょう。箭が沈んでゆくので、このような漏刻を沈箭漏(ちんせんろう)と呼びます。

ところで、この出土した漏刻には、いくつか問題があります。第1に、出水管から流れ出る水量が一定ではありません。すぐに想像できるように、壷に水がいっぱいに満たされているときは出水管から水が勢い良く出ますが、壷の中の水が減ってくると水の出が弱くなります。これでは、時間を正確に計ることができません。

第2に、箭を浮かべる水面が安定しにくいので、目盛りを正しく読みとるのが難しい。時計はいってみれば精密機械ですから、これら2つの欠陥は見逃せません。

第3に、短い時間しか計れません。壷の深さ24.2p、直径18.7pの出土品に実際に水を入れた実験では、12.26分しか計れませんでした。そのため出水管に雲母や糸くずを詰めて流量を減らした形跡があるとする報告もありますが、一方で当時の時間の単位である1刻(=14.4分)をはかる目的の水時計であろうとする解釈もあります。

これらの問題を解決するために行われた重要な改良の一つは、壷を2つ使用して、1つは水を流出させる「漏壷」とし、もう1つは箭を浮かべるための「箭壷」とし、2つの壷を上下に置いたことです。上の漏壷から流出した水が、下の箭壷にたまるにしたがって、箭が次第に浮かび上がってくるようにしたのです。

時刻は箭がどのくらい浮かび上がってきたか、その高さから読みとります。この新しい形の漏刻は箭が浮かび上がってくるので、浮箭漏と呼びます。実は中国で最も長期にふつうに使用されたのが、この浮箭漏(ふせんろう)です。浮箭漏の使用は、前漢の末からはじまると考えられています。

浮箭漏にはもう一つ重要な工夫がなされました。それは漏壷内の水面の高さによって流出する水量が一定ではない問題を解決するために、漏壷の上にさらにもう一つ漏壷を設け、流出した分だけ常に補充するようにしたことです。つまり、他の漏壷から水を補充することで、水面の高さを一定に保つようにしたのです。

漏壷の数をさらに増やせばより流量を安定させることができるので、後漢では2段式、晋では3段式、唐代では4段式の浮箭漏がつくられました。図2は7世紀に活躍した呂才による4段式漏刻です。図の右側に、4個の漏壷が高さを変えて並んで設置されています。

人形が立っている水海が、浮箭を立てて時間を計る箭壺です。この漏刻では、一番高い位置に設置された夜天池から流れ出た水が、日天池、平池、萬分壺(まんぶんこ)を経て、最後に水海に流れ込んでゆきます。呂才より後には、漏壷の数を4個以上に増やしても水量の安定に大差ないことを経験的に理解したためでしょうか、4段式以上のものはつくられていません。

一方、図3は11世紀の燕肅(えんしゅく)の手になる2段式漏刻です。水面の高さを一定に保つ問題は、この燕肅によって最終的に解決されました。図では見えませんが、下匱(かき)とある下の漏壺の上縁の側面に切り込みをいれ、その切り込みの高さを超えた水を管(竹注筒など)によって導いて、床に置かれた別の器(減水●:げんすいおう)へ捨てるようにしたのです。つまりオーヴァ・フローの仕組みを利用しました。この工夫によってもはや4段式の漏壷は不要となり、2段ですむようになりました。

ちなみに、図4は現存している漏刻です。元代(1279〜1367)のもので、3段式漏刻です。一番下は箭壷です。地方都市で使用されたもので、さして精巧な漏刻とはいえません。ほかにも、清代(1662〜1911)の宮中で使用されたより装飾性に富んだ漏刻も現存しています。

上記以外にも漏刻の精度を上げるためにいろいろな工夫をしています。たとえば、出水管の長さを長くし、かつ内径も小さくした方がより実用的な時計ができますが、そうすると不純物が詰まりやすくなります。また出水管の内径のわずかな変化や錆も、時計を狂わせます。そこで出水管を取り外して掃除をしやすいようにしたり、錆ないように玉でつくったりもしました。出水管の取り付け位置も、不純物は漏壺の底に沈むので、底よりもやや上に取り付けています。

出水管の代わりに、等量の水を導くために渇烏(かつう)を使うという工夫も5世紀末に現れています。渇烏は鈎(かぎ)のかたちをした銅管で、上の壺から下の壺へ、サイフォンの原理によって水を導くものです。図3には、渇烏という文字が2箇所に見えています。サイフォンを使うことの利点は、水面の波立ちを避けられることが第一ですが、ほかにも管の取り替えが容易、壷に穴を開けなくてすみ漏刻の造りが簡単になるなどがあります。

水質と水温も問題です。漏刻には清浄で水温の一定した水を使う必要があるので、泉や井戸の水を使いました。それも同じ井戸を使うようにしました。不純物は絹の布で濾過し、壷には蓋をして防ぎます。また、水は温度が上がると粘性が低くなり、より流れやすくなります。季節でいえば、夏は水が出過ぎ、冬は出にくくなります。井戸の水を使用したのも、その水温が比較的安定しているからです。

しかしそれでもまだ十分ではないので、使った水と、新しい水を一定の割合で混ぜて使う工夫も生まれました。漏壷は銅製か木製ですが、水温を一定にするためには木製にして、漏壷のサイズをより大きくしたほうが水温の影響を受けにくくなります。さらに冬には水が凍ることがあるので、水を沸かして使用しました。後世になると、漏刻を室内に設置し、暖房をするなどして部屋の温度を一定に保つようにしています。

また水の代わりに水銀や砂を使うという試みもありました。日本では、京都に置かれた漏刻の水が冬に凍ってしまうことがあったのでしょう、氷を溶かすための油代を、漏刻を管理する役所である陰陽寮(おんようのつかさ)に支給したことが、10世紀の『延喜式』(えんぎしき)に見えます。

漏刻の時間の狂いを調整するには、ノーモンもしくは日時計でおこないます。もっとも簡単なノーモンは地上に垂直に立てた1本の棒です。このノーモンの影が真北を指す時刻、もしくは影がもっとも短くなる時刻が、太陽が南中する時刻つまりその土地の正午です。太陽の南中を観測して、漏刻の時刻を正午に合わせることで、時計の狂いを正しました。

中国における漏刻の管理は、首都では歴代の王朝が設置した国立天文台が担当したのがふつうです。天文台には3つの任務があって、毎年の暦をつくる編暦、天文現象を観測して国家の未来を占う占星、時刻を知らせる報時からなっています。

天文観測には時計が欠かせませんし、暦と時間は切っても切れない深い関係にあります。漏刻の保守や報時は年間を通じて、昼も夜も休むことなく続ける必要があります。そのため唐代(618〜907)のある時期の天文台には、漏刻に関与する官吏が800人以上もいました。他の王朝の天文台でも事情は似たようなものでした。

中国では漏刻で計った時を人民に知らせるために、城門や都市の中心にある鐘楼(しょうろう)や鼓楼(ころう)や宮殿内などに漏刻を置いて、鐘と鼓の2種類の音で時を報じてたことがいくつかの資料に見えます。今でも北京をはじめとする都市には、鐘楼や鼓楼が残っています(図5)。

朝鮮の李朝でも、標準となる時間を知らせるために、独自に漏刻や鐘楼をつくっています。日本では漏刻は宮中や役所でおもに使われ、民間では寺院で仏事修行の合図として打った鐘がその役割を果たしました。

このように中国において国家が漏刻の管理を掌中にしてきた背景には、人民に時を報じることが、為政者の責務であったという事情があります。全国共通の時刻制度を使用させることは、統一された文字・度量衡・暦などを使用させることとともに、国家を管理し支配することでもありました。

 

★☆★★朝鮮の漏刻★★☆★

朝鮮における漏刻に関する最初の記録は、『三国史記』に見えます。8世紀の新羅(しらぎ)の聖徳王17年(718)に、始めて漏刻をつくったと述べています。おなじく新羅の749年(景徳王8)には、天文博士1人、漏刻博士6人を置いています。中国では古くから天文学、暦、漏刻、数学、占星などが連携しながら発達しており、朝鮮や日本はそれらを継続して導入していることから、漏刻やそれを管理する官吏も中国にならったことは間違いないところです。

10世紀になって新羅にかわった高麗(918〜1392)では、書雲観という官庁が、観測・刻漏(時間測定)・暦の編纂を担当しています。高麗時代はこの官庁が、水時計や報時の管理を担当していたと思われます。

李朝(朝鮮王朝 1392〜1910)になると、特徴ある漏刻を製作した記録がいくつか見えます。初代の太祖の時には、1398年に李朝で最初の水時計となる更漏がつくられています。更漏は漢陽(ソウル)の中心地に設置され、鐘楼を建て鐘を打って都の標準時間を報じたので、更漏が置かれた通りは鐘路と呼ばれました。

4代の世宗、すなわち15世紀前半は、朝鮮の天文学が著しく発達した時代で、多くの天文学者が輩出し、各地で天文観測が行われ、多様な天文器械が製作されました。それにつれて、複雑な水時計も製作されています。

蒋英実(チャン・ヨンシル)は、水力で自動的に動く報時装置である自撃漏(じげきろう)を作製しています。自撃漏には人形が自動的に現れて、各時刻に鐘や太鼓やドラを打つような仕組みが施してあります。

自撃漏は当時のものは失われてしまいましたが、図6にみるように、後代のものが、ソウルの徳寿宮に保存されています。徳寿宮には、李朝時代の半球型日時計である仰釜日●(ぎょうふにっき)も保存されています。蒋英実は別種の自動水時計である玉漏も製作しており、製作した当時はソウルの慶福宮内の欽敬閣に置かれました。朝鮮にはほかにも、携帯用水時計である行漏などに関する記録も残されています。

 

★☆★★日本の漏刻★★☆★

日本で最初の水時計に関する記録は、『日本書紀』に見えます。斉明天皇6年(660)、中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)が、「初めて漏剋(ろうこく;=漏刻)を作り、民をして時を知らしむ」とあります。この記録によると、7世紀中葉に、日本で初めて水時計がつくられたことになります。

その目的は「民に時を知らしむ」とあることから、日本でも人民や役人に時を知らせるために設置されたことが分かります。いまでは、奈良県の飛鳥(あすか)の水落(みずおち)遺跡が、この漏刻の遺構であろうと推定されています。

中大兄皇子が即位して天智天皇となると、遷都にともなって、この漏刻は近江京に移されました。日本書紀には、天智天皇10年(671)の4月25日に、漏刻を新台に置いて、鐘や鼓で時を知らせたとあります。おそらく、新しく2階建の鐘楼のような建物を建て、1階に漏刻、2階に鐘鼓を置き、漏刻を管理する役人も設けたであろと推測できます。この4月25日は当時のヨーロッパのユリウス暦では6月10日になるので、大正時代にその日が「時の記念日」として定められました。

中大兄皇子の漏刻が中国系の技術でつくられたことは、新羅の漏刻と同様に、おそらく疑いをいれません。この漏刻より先に、中国ではちょうど上述の呂才の4段式漏刻が現れています。呂才の漏刻の製作年代は正確にわかりませんが、彼は唐代の貞観年間(627〜649)に活躍しています。

かりに呂才の製作時期を、中大兄皇子の製作の20〜30年ほど前と想定してみると、当時の交通事情を考えてみれば、新しい技術が伝わった可能性は十分にありそうです。いずれにせよ、中大兄皇子の漏刻が多段式の浮箭漏であった点は間違いないと思われます。ただ、漏刻を実際につくったのが、朝鮮からの渡来人であったか、中国の技術者であったか、それとも彼らの技術を学んだ日本人であったかははっきりとしません。

7,8世紀の朝鮮と日本は、中国から漏刻の技術だけを単独に学んだのではありません。時計を管理する組織や、時間の管理を為政者の任務とする政治的な考え方も一緒に学んでいます。両国ともに古代国家としてかたちを形成していった時期であり、官僚制的な政府を創設してゆくための時代の要請が、漏刻の導入の背後にあったといえるでしょう。

中大兄皇子の漏刻以降、日本の漏刻に関しては、江戸時代にいたるまで漏刻が使われ続けたことをうかがわせる記録が散見します。しかし、実物は見つかっていませんし、機構や形状を伝える文書も見つかっていません。江戸時代には、桜井養仙『漏刻説』など数種の著作に漏刻に関する図が出てきますが、ほとんどが中国の書物からの転載にすぎないので、それらから日本の漏刻を知ることはできません。

室町時代になると、宣教師によってヨーロッパから機械時計がもたらされました。機械時計の便利さが知られるようになると、江戸時代には日本の時法(不定時法)に合わせた和時計がつくられるようになり、やがて漏刻は次第に忘れられてゆきます。漏刻が機械時計にとって代わられるようになるのは、中国や朝鮮でも事情は同様です。東洋で長きにわたり主役をつとめてきた水時計が、歴史の舞台を退くときが来たのでした。

 

★☆★★水力天文器械への発展★★☆★

中国や朝鮮の漏刻はただの時計としてではなく、より複雑な機構を持ち、水力で自動的に動く天文器械や時計台へと発達してゆきました。ここではその中の一つ、中国の11世紀に製作された水運儀象台が完全復元されているので、それを図7に示しながら紹介しましょう。水運儀象台は、近代以前においてもっとも精密で、もっとも巨大な機械の一つです。その高さは約11メートル、3層立ての建造物です。第1層が報時装置で、人形が自動的に鐘や鼓を打って時を知らせます。

第2層には中国式の天球儀ともいうべき渾象が置かれ、最上層には多数の円環を組み合わせた渾天儀が設置され、天体の座標測定などに使われました。建物の後部に大型の水車があって、歯車によって先の3つの装置を自動的に動かしています。正確に時間を刻むために、水車が一定時間に一定の角度だけきちんと回転するようにした脱進機も組み込まれています。復元したところでは、時計の1日の誤差は2分以内とのことですから、11世紀中国の機械技術の水準をうかがうことができるといえるでしょう。復元された水運儀象台は、長野県の「儀象堂」(ぎしょうどう)に展示されているので一度足をお運び下さい。

「儀象堂」:長野県諏訪郡下諏訪町3289番地 /0266-27-0001 http://www.gishodo.jp/  

 

★☆★★時法★★☆★

中国、朝鮮、日本で使用された時法は、とりあえず次の4種を知っておくとよいと思います。ただし時法は不明な点が多く、地域や時代によっても各種あり、下の時法のバリエーションもあります。

まずは、歴代の中国の天文台で使用されてきた百刻法。これは1日を100刻に等分し、1刻を10分に等分する時法です。やがては朝鮮や日本の天文台でもこの時法を使用するようになりました。中国では、西洋天文学を取り入れた清朝になると、百刻法にかわって九十六刻法が使用されるようになりました。朝鮮でも九十六刻法が使用されています。

民間や宮中など一般に使われた時法が、十二辰法(じゅうにしんほう:十二時の法)です。1日を12等分して、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の十二支の名前で呼びます(図8)。ですから十二辰法の1時は、現代の2時間に相当します。注意すべきは、ふつうは、子時は午後11時から午前1時までの2時間を指し、0時から午前2時までを指しません。丑時も午前1時から3時までの2時間を指します。以下、同様です。

百刻法や十二辰法のように1日を等分する時法を定時法(ていじほう)といいます。それにたいして、1日を不等分割する方法を不定時法(ふていじほう)といいます。中国では、夜間は不定時法である更点法(こうてんほう)が用いられました。日の入り後の2刻半を昏(こん)、日の出の前の2刻半を明(めい)といいます。

この昏から明のあいだの夜間の時間を5等分して、1更から5更まで数えます。さらに更(こう)を5等分して、1点から5点まで数えます。夜間の長さは季節とともに長くなったり短くなったりするので、更や点の長さも季節とともに変化します。更点法は中国や朝鮮で使用されていますが、日本ではあまり公に使用されなかったようです。

江戸時代には、夜明けを明六つ、日暮れを暮六つと呼び、その間を昼夜ともに、五つ、四つ、九つ、八つ、七つと6等分する独特の不定時法が行われています。九つは真夜中の0時か、正午で固定していますが、その他の時刻は季節と共に移動します。ですから、図8に示した江戸時代の時法(外側から2番目の円)は目安にすぎません。この独特の呼び方は、時刻を知らせるために打った鐘鼓の数にもとづいたものです。

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水時計の来た道:図

 


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